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1970年代に一世風靡した「アンノン族」、その一方の雑誌「アンアン」

 現在も好評展開中の雑誌「アンアン」は1970年3月に発刊された。その後、1971年に「ノンノ」が発刊され、この二大誌が当時の女性ファッションを2分した。そんな「アンアン」の中に「an・anミニコミ」という読者向けページがありました。1976年1月以降、このページのシンボルカットとなったパンダの絵を描きつづけたのがパンツ屋エディです。
 当時の「アンアン」のシンボルマークとして大橋歩さんが描くパンダがありました。それをパロディ的に描いたのがパンツ屋エディでした。
・連載期間:1976年1月5日号〜1979年5月5日号 全79冊

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どうして"an・an"で描くようになったのか?

「アンアン・ミニコミ」のシンボルカットとして使われるまでには、ただの一読者でしかなかった。男のくせに女性のファッション雑誌の読者? 連載が始まる前はファッション専門学校の一学生。そんなところからの情報ソースとしての雑誌購読だった。
読者参加型ページの「アンアン・ミニコミ」は現在でいえば掲示板やSNSに近い。読者からの日常のつぶやきやペンフレンド募集(文通相手の募集)などが掲載されていた。そうした中で個人の写真などに混ざって可愛い漫画やパンダの絵などの投稿があった。「この程度のものなら俺にも描ける…」そう思ったのが、この世界への入口だった。
初めて投稿し掲載されたのが右の絵です。大橋歩さんが描かれたパンダのイメージをくずさずに何かうける方法は…と考えた結果がこれだった。その後、別号にて編集担当さんからのリクエストメッセージが掲載され調子にのってダジャレシリーズのパンダ絵を連発することになる。「あんこ喰ってる アンパンダ」「(野球のアンパイアの格好で)しんパンダ」「(車椅子に乗ったパンダ)鬼警部アンアンサイド(当時の人気のアメリカテレビドラマ『鬼警部アイアンサイド』のダジャレ)「(ビキニのパンダ)平凡パンダ(同じ出版社の『平凡パンチ』のダジャレ)」など…。この馬鹿馬鹿しさにあきれられたのか、シンボルカットを描くように依頼を受けて本格連載のはじまり。
当時の「アンアン」はファッション雑誌だったので、今なら「読者モデル」というのがあるが、私の場合は「読者絵描き」ということになるのだろうか?

flypanda.jpgはじめて描いた絵

「パンツ屋エディ」が描いたパンダの絵

依頼を受けたものの「ダジャレ」は封印。何をどう描けばよいのやら、ふと迷ってしまう。ただ、季節感を表現して欲しいと頼まれただけ。試行錯誤の日々が始まり、締切数日前にはアイデアを絞り出すのに七転八倒の思い。本格連載開始の時点で編集の方に「キミの絵は下手だけれど何となく味がある」と言われて調子づく。1回につき2〜3枚の絵が掲載された。


profile.gif パンツ屋エディ(本名:蓬莱敬市)
パンダを描くと「自画像ですか?」と言われる。

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ハロー!パンツ屋エディ

「アンアンミニコミ」は読者とのコミュニケーションページなので、たまにパンツ屋エディあてのレターが舞い込んだようです。その一部が掲載されることがありました。(右の画像)

ハロー!パンツ屋エディ

  • この間友だちのでめこに「私きょう紺色ぱんつやにー」といったら「なに紺色? 色ものの人はもう非処女やで」といわれた。そのぱんつ買ったときはまだ処女やった。わたしは予知能力があるんかなー。質問、ベージュのぱんつさんが好きなんやけど、ベージュも色ものになるのかな?おしえてパンツ屋エディさん!(いろいろぱんつ愛用者17歳の乙女)
  • ★パンツは人類の永遠の課題です。ひとことで申しあげられれません。あしからず。(パンツ屋エディ)※編集部による返答

その他、色々とファンレターは届いていたようです。

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その他のキャラクター&仕事

イラストレーションの仕事ばかりではないので作品としての絵は少なく他の仕事でのキャラクターは「駄菓子屋チェーン」のおばあちゃんのキャラクターやテナントビルのシンボルキャラクターのベースデザインを描いた。本来は企画が中心の仕事なので、それらから派生したものがカタチとなった。

その他の事例の詳細はコチラ

umesan.jpgウメばあちゃん

tanuki_p.jpgシバエモン